昭和43年3月16日 総会 ★



 午前中、この会をなされます前に御祈念を頂きましたらね、皆さんにも聞いて頂きましたことでございますが、生神金光大神御取次ぎの道のごヒレイがご大祭の上に、またはまるしょうの、少年少女部会の育成の上に輝いてまいりますおかげを頂きますことをお願い申しますといったような(?)がございますね。
 このことを私は大変なことだとこう思うのです。お互いの信心が生神金光大神お取次ぎの道、ね、それぞれの生活の上にも輝いてまいらなければならないような、それはただ、おかげを頂くというだけではありません。まあいっちょ金光様の信心しござるけんどんどん繁盛しよると、というだけではないのである。もうひとつそれの、ね、それが道の輝きにならなければいけん。
 生神金光大神取次ぎの道、例えば今日のことは少年少女部会が発会されます。そのことの上に、道のヒレイが輝かなければなりません、また、臼杵でも行われます、ご大祭の上に、ね、そういう生神金光大神取次ぎの働きが輝かなければ、ならんのでございます。ただ、沢山の人が参って、大変盛大なお祭りであったということであってはならないということ。
 このことはね、言葉がそれだけですから、皆さんよく自分で繰り返してそのことの深さをひとつよく考えて頂きたいと思うのですね。そのことが最近言われております、様々なひとつ、その時その時の、信心の中心になりますもの、それを集めますと、そういうことになるのです、ね。
 寒修行を頂きます、2月4日ですね、まあ寒修行が始まりです。それまでは合楽の毎日のお届け数がまあ200名ありましてございました。寒修行が始まりましてからずっとこのかた、300名、現在では320名平均でございます。毎日日誌が記帳されておりますから、ご覧になると毎日の合楽のごヒレイがあれにも引き渡してもらう。
 言うなら100人、また以上の人がお参りをしておる、お取次ぎをああして頂いておるということになる、ね。しかもそういう人達がどういうところに目を置いて、目指しを置いて、いわゆる信心の方向をと、ね。お互いが、これはですね、でもこのようなところをもう繰り返し申しますから、皆さんもその繰り返し、ひとつ、マンネリとして聞かずに、頂いてもらわなければならないと思うんですがね。
 今日は御祈念の後に、善導寺の原さんが御心眼を頂いております。秋永委員長が小さいおにぎりをひとつ頂いておるところを頂いた。これは秋永委員長がままになっておるというのではなくてですね、ままになっておることはおかげを頂いておるというのは皆さん見んでも分かっておる。おかげを受けておる時ではない。
 ほらもうとてもおかげ頂かん(の?)。毎日、いつも今日その皆おかげ頂けんのに、ね。もう本当に、もう思いがけないようなおかげ頂いております。昨日、久留米の飯田さんが、もう本当に神様の働き(?)、恐れ入ってしまうっち、そのお取次ぎがあっておりますが、そういうお届けが日にいくつさして頂くか分かりません。どうぞ、いややっぱ私でも思うようにその、神様のお働きとは、言うなら不思議なことにまで、お働きをさしておるんだなあというような働きを下さるのですね。
 だから、それはなら皆さん、皆がままになってるわけ、おかげ頂いておるわけ。家がそういうわけでみんな繁盛しております、ね。訪ねたりいたします、はあやっぱり金光様の信心しござるけん、繁盛しござる。これはね、いかにも金光様の信心すりゃあこういうおかげを頂くということも不思議、材料にはなりますね。またはそれは、( ? )けれども、今日、合楽の信心はそれじゃないのです。その例えば繁盛がですね、そのおかげが、ね、神様と共にままになっていく時、いわゆるとにかく一生懸命、雨が降って、最近この頃、椛目に対しても申しましたように、どういう信心すりゃあおかげを頂くかと。
 もうその信心のひとつのおかげを頂く心得といったようなものをですね、ひとつ会得しておきますと、おかげを頂くんですよ、参って来んでも、ね。それを行の上に現していってます。ね。それでもその、参って来るということだけでもないのです、ね。どういう信心すりゃあおかげ頂くかということではなくてです、ね、当たり前のこととしての信心、ね。この当たり前のことの信心というのは、教祖の御教えを借りるとどういう事になるかと言うと、神はわが本体の親ぞということが分かった。そして、信心は親に孝行するも同じぞやということになってきた。お商売でどんどん繁盛しておかげを頂いて、先生の好きなものでもお供えする。お月次祭には、これを最高のお神酒をお供えする、ね。それは確かに還元にもなりましょう、神様も喜んで下さる、らんことはないのでしょうけれども、そういうことをもって喜びされるのじゃないのだ、ね。
 それがもう当たり前、おかげを頂きよるけん、そうするでなくてですね、もう当たり前のこととしてなされるところの信心。「神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞや」という信心、ね。その辺のなら違いをひとつはっきり皆さんが分からなきゃ。そうして、それはできなくても、ね、そういう方向に向ってそういう信心とはどういう信心であるか、そういう信心とはどうしたらよいであろうかと自己を肯定しないでの、言わば心で、心の中に磨いていけるということなんです、ね。

 で、今朝の御理解を頂いておりますと、自己を肯定し始める生き方ということは自己を否定するということじゃない。否定でもなからなければ肯定でもない、ね。現在頂いておるということがです、ね、自分の心の中にも信仰的な感情があふれ、同時にそれを実証するためにおかげが現れてくる。だから自分の思うておることしておることは間違いないんだという確信をもちながらも、この確信よりもしかし、もっと本当なことがあるんだということ。今、自分が思うておることよりも、もっと本当なことがあるんだということ。そのもっと本当があるんだということをです、自己を肯定しておったんでは頂かれんの。これでよいと言うておったんではもうその、殻の中に閉じこもってしまって、それまで。ね。
 そこんところをです、自己を、そういう確信を持ちながらもいつも自分を自己を肯定しないで生きていくところの、生き方。そういうことにならなければならない、ね。それは、完全も、ね、同じことである、ね。信心をするにも、おかげを頂くけんばっかり参りよると、またおかげ頂くために参りよると。という時代から、ね、どういう信心さしてもろうたらおかげ頂くであろうかと一生懸命、朝参りもした、一生懸命御用もさして頂いた。
 そして、信心の言わばおかげを頂くコツあいも覚えてきた。これまではいかに肝心はあっても御用ではないということ。これは私用だと、私の用だと。1、2、3、4の4でいっちょ足りないような、この日のことだけ、途端にできんと言う、ね。どういう信心さして頂いたらおかげ頂くであろうか。信心を求める、信心をいわゆる、本当どげな信心してならおかげ頂くじゃろうなと言うて、共励し合う。
 もうこういう間はですね、まあだいくら御用してもそれは私用なんだ。皆さんそうでしょうが、おかげを、どういう信心すりゃあおかげを頂くじゃろうかという、そのおかげを頂くための信心ですから、私用。おかげを頂くために、いわゆる御用しよるとじゃからそれは私用、そうでしょう、ね。
 ところがです、ね、例えばとにかくお参り、しかもです、しかも金光様が、ね、4時なら私も4時の御祈念をさして頂こうと気付かして頂いた。それもあの、青年教師会の布教研修会がある2,3日前からであった。そんなことなんか、全然、私は考えたこともなかった。あれはもう金光様のものと思うておった。それでも、思うておったけれどもです、いつも私の心の中に自己を肯定することのない信心が育っておったと。
 本当の信心をもっと分かって、もっと分かりたいという信心がです、ふっとそういうチャンスに、今日、行き会うた時にです、私の信心が本当なことにすっとこう入っていった。もちろん、私だけのひそかな信心であるから、私は4時からずっと、御簾の内に入って、一人で御祈念するだけだから、誰も後ろについてくることはいらんぞ、ご神飯も、もう5時の御祈念に間に合いさえすればよいぞ、修行生の方たちも慌てて来ることはいらんよ。
 ところが明くる日からご神飯が、なら私の4時前にはお供えがしてありました。10分または15分前に私が控えにまいりますと、もうちゃんと火が入っておって、火鉢がそこに火が入っておる。修行生の方たちはもう皆、準備をして、静かに私の御祈念を待っておる、ね。もう思いもかけないことがです、私はこう、誰がどう言われたわけでもないのに、そういうことになってくるのです、ね。
 昨夜は若先生はそのことを明日からは5時の御祈念を僕がさして頂きたいと思うと。せっかくでん、私が4時の御祈念終わらして頂いたら、また一度御結界につかして頂いて、もしくはまた新たに皆さんと一緒に御祈念をさして頂こう。私の信心を横取りされるような思いだったんですね、実は。それを申します、まだまだあんたどんじゃ甘かというような気がしたんです。★ところがその時、頂きますのが、ちょうど、小さい子供の頭の上にりんごをのせて、それを親が弓で射っておるという、あのう、(?)物語の中にありますね、それを頂くのです。
 ほう、長男が朝の5時の御祈念を皆さんと一緒に奉仕する。私は4時の御祈念を奉仕する。5時の御祈念もやはり私の信心だけれども、信心の継承ということが言われる。子供がそれだけ一生懸命なのが、親のとにかく一生懸命、自分が引き継ぐから子供心、子供の信心を生かすか殺すかというような(?)。これは私が御結界に、先生が奉仕をするあの御祈念を一生懸命で、おかげを頂かなければならない。
 それならあんたがおかげを頂いたらということになって、今朝から若先生が5時の御祈念を奉仕されておられます。5時の御祈念が終わらせて頂くと、私がいつものように御理解を奉仕さしてもらう。そのことをですね、願われて頼まれず、ね、本当のことが本当に、スムーズにしかも有り難く、これは継承できていっていっておるということが素晴らしいでしょう。息子が言うことを聞かん。もう自分自身が本当なことに、少し本当なことになったら、もう本当なことが次が続いていくということなんです、ね。
 今朝の御祈念に今日のことをお願いさして頂きよりました、また一月後の大祭のことをお願いさしてもらっておりました。総会が大祭を一月前にして、ね、お互いの信心の調子を整えなければならん、というのがこの大祭の、この総会の願いである。ご心眼に頂きますのに、ちょうどあれは、この辺りじゃないよね、(?)辺りのお祭りの時に(かんだな?)というような(?)によく見えるですね、おみこしを担いで、若い異性が沢山集まって、わっしょいわっしょいわっしょいわっしょいで担ぎ上げていくというあのね、お祭り気分のところを頂いた、ね。
 ご大祭というものはね、ご大祭というものが、ただ、そういう、ね、まあある意味では仏教的なですかね、ご大祭自体、お祭りお祭りというのが、神様を担ぎ上げられたような感じでのお祭りであってはならない。お道のご大祭というのは、ね。特に今日はあの(ぶんしゅうしゅうじ?)ということについても頂いた、ね。
 ある新興宗教なんかでは、もう徒党を組み、(?)で徒党を組んで、そのお導きに回る。そして日ごろは、一人で( ? )でもせんで、(たく?)を叩いて、あなた方の信心は間違うとる、邪教だ、間違っておるのだと言うて、自分の信心をまあ習ったことだけであろうけれども、それをしゃべる。一人でも(おきらん?)。その(?)50人を、行くとです、ひとつの(文集心理?)。それからと言うてその、(まわっておる?)が、信仰的感動があるかと、ね、信仰的喜びをもっておるかと、その喜びも持たん。助かっておるかというと助かってもおらん。おかげを頂いておるかというと、おかげも頂いておらん。
 これが本当だと教えられた言葉、言わばうのみにしておるだけなんです。人々が助かってない、ね。そういう邪魔者ばかりがいくつ集めたって、どこへ(?)おらなければやっぱ無理です、ね。100人の者が集まったってやっぱ0は0です。だからそういう(ぶんしゅう心理?)をね、つかんで、例えば事を成すというようなこともありますよね、昔の(たっせいき?)なんかそうなんです、ね。
 無学の百姓がわあわあ言うちから、何かに、その、それで押されて、後で(ぶんしゅう心理?)が生まれてきた。そして、(あえよる?)その、ことになってくるわけなんです、ね。そういうことに、でのご大祭であってはならない。一月前にこうやって皆が集まって、皆がさあご大祭目指していきよらんのじゃんの、さあどげなふうにするのといったようなことだけでですね、もし一月後のご大祭が仕えられるとすると、それは大変な間違いなんだと、ね。金光大神取次ぎの道ごヒレイということにはならない。その証拠には、お大祭が済んだら、すうっとしてしまう。お祭り気分がなくなったらまた、かえって疲れてしまう。いうことになるのである、ね。
 そこで一人ひとりがね、一人ひとりが信心の力を持ち合わなければならない。半年間の信心の稽古をさして頂いたら果たしてどれほどの信心の力がお互いできたかということをこの総会によって確かめて、はあ、これは自分が不完全であった不完璧であったというものをです、この一月間の間の上においてでも、ね、それを自分のものにしていく。それはただ、おかげを頂いておりますというそのおかげを頂いておるというのではなくて、最近のお道の、ここの信心の生き方は、どこまでも「信心は親に孝行するも同じことぞや」ということを芯において、ね、神も助かり氏子も立ち行くということを芯において、ね、そういう信心をです、例えばひとつ(?)歩きよって、500人の者が集まれば、そういう力が500集まる。
 そこに今までかつて、味わえなかった雰囲気のご大祭ができるんであれ、そのご大祭がお祭り騒ぎに終わることのない、お祭りを境にまた一段としたごヒレイを頂くことができるであろうというのが、この総会の願いなのです、ね。だから、今日の合楽の信心はです、ね、たら、おかげを頂いておるというだけではいけない。おかげを頂いておるから間違っていないというのじゃない。それはもう自分を肯定しておるのだ。間違ってないからおかげ頂きよるじゃないかというようなことだけではない、ね。
 自分の心が今、合楽で言うておるところの方向に向かっておるか。そういうことをまずひとつ確かめて、ね、そして日々のお参りが、もうこれはね、絶対、朝参り、ね。例えば、もうここんところを、例えばあの秋永先生が先ほども申しますようにね、思うても涙がほろほろこぼれるとこう言う。あれなんです、ね。
 もう当たり前のこととして、親子でも信心ができておる、ね。それでも神様に頂かれるのは小さいおにぎりで、神様としても(何を願えたかじゃなか?)、先生としてもそげなふうになっていきよる。これを(?)けれどもです、ね、もう当たり前のこととしての観念、もう当たり前のこととしての朝参り、ね。
 ここのところにです、私共の方向が、それが当たり前のこととしてではないけれどもです、まだおかげ頂きたいでいっぱいなんだけれどもです、方向はこれでなからなければならないんだと言わさなきゃいけない、ね。まだおかげ頂きたいばっかでいっぱいなんだけれども、方向は(?)の方を向いておかなければならない。さらには自分を肯定しておったんではできない。これでよいということではいけない、ね。
 自分を肯定しないでの生き方、ね。そこからですね、そこまで到達はしていなくても、方向だけはそちらを向けておらず、おってです、それができれるところから生まれてくるのが、心からなされるところのお詫びなんです。おかげでこの方よう合楽の信心の方向が分かりました。分かりましたけれども、自分というものを見極めておると、まあだ、ね、まあだ自分の心の中には自分の我情我欲を満たしたいばっかり。また事実、このレールの中から脱却したい、この難儀を助けてもらいたい。
 というだけでお参りしておる私なのでございますけれども、方向は神様とての、もういつかは、ね、いつかは私の心の中にそういう素晴らしいところへ向かっての信心がなされてくるおかげを頂かして下さいという願いのもとにです、その信心がなされなければいけません。

 先ほど、善導寺の親先生ところのお母さんがお届けをしておりました。朝の御祈念に来ておりませんから、そのご理解を頂いて、最近のご理解は難しい、もう本当に難しい。皆さんがそう言われるんです、確かに難しい、ね。けれどもここんところはどうでも、やはり勉強さしてもらって、それとて、どんくらい勉強すりゃいっちょん難しかと、ね。自己を肯定しないでの生き方。
 それも覚えではない。ならその訳はどういうことかと。その訳を最近は毎日毎日のようにその内容を頂いておるのです、ね。だから難しいことじゃない、ね。だからこういう生き方でなからんとですね、金光大神取次ぎの道をですね、あらゆることの上に、現していくことができない、ね。例えばそういう素晴らしい合楽の例えばなら信心で、例えばもしあってもです、それをんなら(竹葉会?)の方たちにも聞かれて、はあこっちにはご心眼頂いてこんじゃった、今からご神夢頂いてこげなお知らせを頂いたというような話じゃ通用しないけれども、ね。
 そこで、私は最近、あの(こし?)をつくってですね、骨をつくって、皆で信心する肉をつけていけという、そういうところをひとつお互いが勉強さしてもらう、ね。自己を肯定しないでの生き方、ということは自分を否定するということでもない、ね。現在、自分が頂いておるところの信心はこれは間違いはない。証拠にはここに実証がある、おかげの実証がある、自分の心の中には信仰的喜びもある。けれども本当言うたらもっと本当のことがあるんだというところに自分を肯定しない、あり方がある。これですんだとは思いませんというのである、ね。
 これですんだと思いませんという生き方が大祭に向かって進められていかなければならない。そういう難しいことをあらゆる角度から聞いても難しい、ね。けれども先生、今朝のご理解を頂かせてもらいよってから先生、(きつわんと?)っち、そしたらようがんばって(くれんなん?)(笑)、感激しておられる。その方に言おうと思うたら、ね。それがどういうことであったかと言うとです、もう先生が言いふるしに、言いふるしてみえられた。また、合楽の信心の合言葉のように言われてきた、限りなく美しゅうなりましょうやという、ここのところに絞らして頂くと、私でも(朝目が悪いから、修行?)で分かりませんけれども、ここんところを絞るとじゃなかろうと思います。(?)あんた素晴らしいことを発見しましたねって言うて私は申しました。やはり昔から言われてきておったんです、ね。
 それがもう(?)になっとるからこんくらいでよかと思うて、肯定しとるもんじゃけん、もう自分がこのぐらい信心ができよる、このぐらいな御用ができよるから、もう自分はもうこの程度っち、こう決めとるんです。まあだ、これ、自分はこの程度、もう(?)で止まっとる、ね。そこんところに限りなく美しゅうならせて頂くと、こういうようなものがなくなるんです。限りなく美しゅうならせて頂きゃあ、いつもはこれではすんだとは思いませんというものが自ずと生まれてくる。
 結論するとやはり、限りなく美しゅうならせて頂こうということに向かうことなんだ、ね。そこに人の非が見えることもなからなければ、不平が生まれてくることもなからなければ、難儀を難儀と感じることもないその難儀こそが絞められれば絞められるほど、今日の朝のご理解じゃないけれども、よい音色が出てくるんだと。そして、これ確信しなければならないことは、どんなに締められても締められても、それはお互いのめぐりの程度であって、絞め殺されることは絶対にないとう安心をもって、この難儀に打ち向かい、この難儀に姿勢を変えよう、向けよう。
 絶対に絞め殺されることないです。ところがね、そこんところが分からんと絞め殺されますよ、本当に。そこのど真ん中に絞め殺されそうになりますよ。そういうのが分かったら、もう絶対に絞め殺されずに、神様は絞め殺されてしもうたらそらない。けれども、分からんと自分で絞められておる、ね。
 そういうことになる、ね。有難いことより、有難いこと、ね、この例えば感じておる、絞められることが難儀なことが、(?)だけじゃないですけれども、絞められれば絞められるほど、よい音色が出てくるようなおかげを受けられるということはです、これは皆さんも体験なさるであろう、また、私が言うておる、私の信心の初めからお話を聞かれた時にもそうであった。



明渡真